プーク見聞録 – 人形劇団プーク

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プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑬

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 皆さん、こんにちは。暑い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。人形劇団プークでは、明日から夏の公演『エルマーのぼうけん』を紀伊國屋ホールにて行います。

 プークは1965年のNHK教育テレビ『エルマーのぼうけん』放送に関わったことをきっかけに、その内容に惚れ込み同年には舞台初演を果たしました。その頃の日本は、子どもたちを取り巻く文化状況が過渡期を迎え、プークは子どもたちのためにどのような人形劇を創っていくか模索している時期でもありました。
 『エルマーのぼうけん』との出会いは、その後の子ども劇場・おやこ劇場運動へもつながり、プークの活動は全国へと広がっていきました。以来、再創造を重ね、プークの大切な作品として受け継がれています。今回ご覧いただく『エルマーのぼうけん』は、2017年にアメリカ在住の原作者R.Sガネットさんのご自宅を訪ねたところからスタートし、ブルガリアの人形劇界を牽引する美術家マィア・ペトロヴァ氏をお迎えしての大プロジェクトとして誕生しました。たくさんの出会いを経て、この度ファイナル公演となります。

 皆さんそれぞれに想いの詰まったこの『エルマーのぼうけん』ですが、空を飛ぶことについてのこんな見方もあるかもしれません。今月発行の 「みんなとプーク」第280夏号 『プーク見聞録』のコーナーから、ご提案いたします。こちらの記事を読まれたあとには、きっと新たな視点で『エルマーのぼうけん』をお楽しみいただけることと思います。ぜひ劇場でお待ちしております。

▲ 2022年7月15日発行「みんなとプーク」第280夏号

プーク見聞録 その6 ~空のイメージ~

 「ぼくは将来ぜったい飛行機乗りになるよ」夏の波止場で少年は語る。沖には蒸汽船、激しく吹く汽笛すら水平線の彼方へ吸い込まれてしまいそうな田舎の港町。空ではただ鴎(かもめ)が鳴いている。R・S・ガネット原作による人形劇『エルマーのぼうけん』はそんな情景に始まります。有史より、人は空に焦がれ、幾度となく飛行を夢見て来ました。その憧れは神話や宗教画の図象などに残され、やがて科学技術の発達により実現されました。今回は、空や飛行についてお話しましょう。

 ギリシャ神話に語られるイカロスの翼は、人間の傲慢を開示する悲喜劇であると共に、普遍的な空への憧憬を描いた一遍です。ダイダロスの作った人工の翼は、父子のみでなく多くの人々を空へと駆り立てました。11世紀の英国に実在したとされる修道士もその一人で、エイルマーという名のその若者、神話の叙述を現実と思い込み、ダイダロスに倣い細工した翼で塔の上から飛び立ったといいます。無念にもこの若者は、夢の代償に大きな怪我を負ったと伝えられていますが、このような実験例は古今東西に多く残されています。やがて時は経ち、18世紀には科学技術を応用した乗り物による飛行実験が欧州で行われるようになりました。その歴史は空を漂う気球に始まり、翌世紀の半ばには動力と舵を備えた飛行船が発明されました。この空飛ぶ船により、ついに人類は自らの意思による飛行を成し得たのです。以降、航空技術の発展は日進月歩の時代を迎え、20世紀初頭に誕生した飛行機により空は速度の百年を駆け行きました。

 しかし、なぜ人は空に憧れ、そして飛びたいと望むのでしょうか。そもそも空とは何なのか。日本の場合を考えてみましょう。作家の竹西寛子は「空はずっと昔から空だった」と、いつでもそこに空があることを直感的に述べていますが、高村光太郎の『智恵子抄』には「東京には空がない」と書かれています。我が国における空(そら)は、古代、般若心経にある空(くう)の思想と結びつき、また私たちは何もないことを空(から)とも書きます。そう考えた時、智恵子の言葉は「東京には無(む)がない」とも読めるでしょう。街や道路といったものは意味によって建設され、価値によって残されます。しかし、そうした場ではただそこに在ることを許容する空白が失われます。「色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています」と川端康成の言葉にありますが、様々な人間の理想や思惑が複雑に絡み合い形成される都市において、時に人は何もない空を、白の色彩を見失います。また、作家の石牟礼道子は「むかしの田園では、大地と空はひとつの息でつながっていた」と書いています。都会を離れ霞に滲む遠くの峰々を見遣る時、私にも空と大地とは一つに見えてなりません。空とはつまり、私たちの精神を意識やその理解から解放し、限りのない無垢へと至らしめる存在なのではないか。私には、そう感じられます。

 「人間は考える葦である」とは、パスカルの言葉です。自然の中にあっては水辺の葦草のように頼りない人間が、これほど豊かな社会を築き上げてこられたのは、多く思考する力に依るものだと言えるでしょう。しかし、イカロスの翼の失墜は頭脳ばかりでは空を自由に飛ぶことは出来ないことを示唆しています。では、どうしたら人は自由に空を飛べるのか。その一つの答えが絵画にあります。マルク・シャガールの『誕生日』には、宙に浮かぶ画家が恋人に口づけする姿が描かれています。ここで注目したいのは、この画面には翼もそれに代わる装置も描かれてはいないことです。彼はただ、喜びにおいて飛んでいるのです。後年にシャガールは自身の絵画表現について「(私が描くのは)夢ではなく、生命」だと述べていますが、この一枚の絵には生命が歓喜する時、人は空をも飛べるのだということが描かれているようです。

▲舞台『エルマーのぼうけん』より

 

 2018年の夏の日に、ガネットさんが来日されました。今でも思い出すのは、紀伊國屋ホールで対面した彼女から光のようなものを感じ、我知れず落涙した記憶です。それは、初めて太陽を目の当たりにした土竜(もぐら)が、その光彩に流す涙のようでした。きっと私はこの時に空を飛んだのです。物語りの中で、少年の憧れは竜の自由と一つに結ばれ、羽ばたき出した大きな翼は空へ飛翔します。或いは、人は誰かの翼になることで本当の空を飛べるのかも知れません。明日、あなたは誰と空を飛びますか?

(文/池田日明)

▲2018年8月 原作者ガネットさん観劇記念

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑫

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 皆さん、こんにちは。プーク人形劇場では『もりのへなそうる』と『影絵人形劇 大きなかぶ』の公演が始まり、ゴールデンウィークにはたくさんの皆さんにご来場いただきました。まだ観ていないという方、明日からの公演は比較的お席に余裕がありますので是非お出かけくださいませ。

 さて『もりのへなそうる』では、てつたくんとみつやくんが繰り広げる遊びの中から物語が展開していきます。この「こども」と「遊び」とは一体どんな関係にあるのでしょうか。先月発行の 「みんなとプーク」第279春号 『プーク見聞録』のコーナーから、一緒に考えを巡らせてみたいと思います。

▲ 2022年4月15日発行「みんなとプーク」第279春号

プーク見聞録 その5 ~こどもと遊び~

 この春からプーク人形劇場では『もりのへなそうる』が上演されます。お芝居では五歳になったお兄さんのてつたくんが、二歳年下の弟みつやくんを連れて、こども部屋から想像で見立てた不思議な森へと探検に出ます。鬱蒼とした密林を切り開き、果敢に進んで行く二人は、やがて森の奥に”きれいなでっかい卵”を見つけ……。そうして始まるこのお話しは、私たちをこどもの遊びの世界へと誘います。今回は、そんなお芝居にもある「こども」と「遊び」について様々な本からみていきましょう。

▲ 人形劇団プーク「もりのへなそうる」舞台

 皆さんは「七歳までは神のうち」という口碑をご存じでしょうか。柳田国男さんが採取したと言われるこの言葉の解釈については諸説あり、よく知られているものには七五三や七つ子参りに関係し、幼子の命の不安定さを述べているという説があります。その一方ではもっと単純に、こどもは大人とは異なる存在であることを表しているとする説もあり、こちらは子やらいという古い言葉にも繋がる解釈でしょう。しかし、ここではこの言葉を文字通りに七歳(満年齢の五、六歳)までのこどもは神と同じだとするものと考えます。その理由は「遊び」にあります。

 人類を「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」と呼称したのは歴史家のヨハン・ホイジンガです。彼はその著書において「文化は遊びのなかで始まった」と、文化の本質が遊びにあることを説いています。では、遊びとは何でしょう。我が国におけるその起源について、詩人の高橋睦郎さんが『遊ぶ日本』の中で興味深い論考を記しています。高橋さんは『神楽歌』の一つ「木綿(ゆふ)作る」において「遊べ」と繰り返し唱和されることに着目し、―元方が「君も神ぞ」というのに対して、末方が「汝も神ぞ」といっているから、唱和する両者は神と想定されるだろう。とすると、「遊べ」とはほんらい神の動詞なのではないかーと推察します。

高橋睦郎 著『遊ぶ日本』

 神と遊びの関連で言えば、東北などの巫女の職能にオシラアソバセがあります。これはオシラサマと呼ばれる木偶(でく)を手で操り、祭文を唱えながらそこに宿った神を遊ばせる祭事のことで、ここでも「遊ばせ」が神の動詞として用いられています。その他にも神楽を神遊びという場合もあることから本来の遊びとは神を楽しませ、神と人とが交歓するための行為であったことが想像されます。

▲オシラサマの人形:青森県下北半島陸奥市のイタコが使う二体、1968年撮影(川尻泰司著『人形劇人ノート』より)

 そうした「遊び」は、現代では社会学者のロジェ・カイヨワの手によって分類化され、『遊びと人間』において彼は、ごっこ遊びや芝居をミミクリ(模擬)の遊びから生じたものと記しています。また民俗学においては、こどもの遊びは大人の慣習や神事の模倣に始まり、そこから本来の意味が抜け落ちて生じるものだとする考え方もあります。日本語における模擬や模倣の起源は、マネブ、マナブと言う古語にあるので、日本では模倣と学習が同源であったことが推量されます。すると、こどもの遊びとは大人の模倣を通した社会経験だと考えられそうですが、果たしてそれだけでしょうか。

ロジェ・カイヨワ著『遊びと人間』

 仏文学者の多田道太郎さんは『遊びと日本人』の中で次のように述べています。―子供は大人そのものをマネているのではない。大人のすることを模倣し、模倣しているうちに自由な好奇心の発動を味わい、これを遊んでいるのである。(中略)子供は実用性をはなれ、感動そのものとなる。子供が最初の詩人となる。子供は大人を模倣しながら、しかし彼はいわば純粋模倣者となる。大人をマネるだけではない、彼は状況を模倣し、生物を模倣し、宇宙そのものを模倣する―ここで言う「感動」とは、即ち私たちの太古の記憶のことです。

多田道太郎著『遊びと日本人』

 民俗学者のフロベニウスはアフリカでの調査を通して、古代人の生活における経験は、まだ表現を得ず「ただ感動に打たれた状態」であったと考えました。こどもとは人の未来であると同時に過去でもあるという考え方がありますが、私たちはこどもの遊ぶ姿に、生きることがただ感動そのものであった頃の記憶を、或いは神の面影を感じているのかも知れません。だからこそ、私たちはその姿に感動をすら覚えるのでしょう。

 「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶこどもの声聞けば、我が身さげこど動(ゆる)がるれ」とは、平安時代の今様集『梁塵秘抄』の一首にもその感動は歌われています。この春は、こどもと遊びの季節を過ごされてはいかがでしょう。劇場では小さなお友達から大きなお友達まで、すべての皆さまをお待ちしております。お客さまも神さまです。(文・池田日明)

植木朝子著『梁塵秘抄』

 こどもたちは未来でもあり、過去でもあったのですね。太古の昔から遠い未来までがこどもたちによってつながっている、何だかとてもスケールの大きな話ですが、客席のこどもたちの素直な反応が、私たち大人に元気や癒しを与えてくれるのは、このようなルーツも影響していたのかもしれません。

 こどもの遊びから生まれた「へなそうる」にどうぞ会いにいらしてください。公演は6月5日(日)まで行っています。劇場でお待ちしております。

▲ 人形劇団プーク『もりのへなそうる』舞台

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑪

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プーク人形劇場に併設された「コーヒープンクト」。店主こだわりのコーヒーと手づくりケーキが堪能でき、観劇の合間の憩いの場として、プークの人形劇とセットで愛して下さっている方も多いと思います。 今回は劇場にとって、なくてはならない喫茶室と売店についてのお話です。どうぞお付き合いください( 2022年1月1日発行の「みんなとプーク」第278号『プーク見聞録』の記事より転載)。

▲ プーク人形劇場2階・喫茶ぷーぽ(1971年)

 冬の朝、東の果てから透明な日差しが町へ届けられました。昨夜は人声に賑わった歩道も今はひっそり閑として、響いて来るのは(のこぎり)みたいな木枯らしと雀の(さえず)りただそれだけです。ちゅんちゅんちゅんと可愛らしい雀の声は、古人の耳にはチウチウチウと鼠の様に聞こえたのだとか。「うつくしきもの。瓜にかきたる(ちご)の顔。すずめの子の、ねず鳴きするに踊り来る」とは『枕草子』の一節ですが、この小さな鳥を愛らしく想う心地は、古今を問わず誰しもが感じて来たことなのでしょう。さて、そんなうつくしき客人も雀合戦さながら集まり来る場が、新宿にあることを皆さんはご存知でしょうか。プーク人形劇場の一階にちょこんと構える喫茶〝プンクト〞。陽のあたる通りに面し、小鳥に祝福されたこの愛らしいサロンと劇場とのお話を今日は致しましょう。

コーヒープンクト(現在)

 「上等な豆で淹れた珈琲を誰にも気軽に飲んでもらいたい」そんな気風(きっぷ)の良さからか、旨い珈琲や素材にこだわった洋菓子やジュースなどを取り揃えるプンクトは、終日(ひねもす)行き交い人や劇場へ訪れるお客様に向かって開かれた喫茶です。また、テイクアウトに供されるペーパーカップには、プークのレパートリーとしても大切にされているメーテルリンクの『青い鳥』を模した絵がスタンプされています。「一杯の珈琲から夢の花咲くこともある」と、古い流行歌の文句にありますが、このうた鳥が告げるのはすぐ隣にある幸せでしょうか。踊り来る雀と戯れ、冬の珈琲が冷めぬ間に、そんな想像に思いを巡らせてみるのも気楽な楽しみかも知れません。

▲コーヒープンクトの紙コップ

 そんなプンクトより前の時代には、〝ぷーぽ〞という喫茶室がありました。こちらは劇場が誕生した1971年に建物の2階に併設されたもので、店内は世界各国の人形劇のポスターや(ほうき)に乗った魔法使いの人形で飾られ、人形劇人たちのサロンとして賑わったと聞きます。また当時を知る劇団員によれば、年末の大掃除を終えるといつも劇団の全員に珈琲を振舞ってくれたと言うことで、一杯の温もりに羽を休めた人もきっと多かったのではないでしょうか。

▲ プーク人形劇場2階・ 喫茶ぷーぽ(1971年)

 しかし、こうした劇場へ喫茶室を併設するという計画は、どのようにして発想されたものなのでしょうか。そこで劇団内にて話を伺えば、どうやら劇場の建設に際してヨーロッパ諸国を視察して回った川尻泰司が、現地の劇場で目の当たりにした経験を元にして発想したということです。「舞台や客席だけでなく、子どもたちが一丁前に迎えられる場所や経験を与えたい」という想いを持った氏が、大人の施設である喫茶や売店をも劇場に併設しようと計画し、数年の後に実現させました。

▲ 喫茶ぷーぽ・ギャラリー
▲ だるまちゃんショップ開業時、かこさとしさんと(2000年・喫茶ぷーぽの後)
▲ プーク人形劇場1階ロビー売店(現在)

 終戦後に再建されたプークは「こどももおとなも楽しめる5歳から88歳までの人形劇」というスローガンを掲げ、日本中を公演するところから始まったと劇団の歴史に伝わっていますが、その標語は劇場建設の際にも作用し、現在でも世代を超えた多くのお客様を迎えられる日々が続いています。劇場の座席に腰を下ろしてどれどれと人形劇を観劇し、喫茶においては歓談のひとときを喫することの楽しみは、これから大人になろうとする子どもにとっても貴重な時間でしょう。

現代の言葉の一つに” 消費者”という語がありますが、人生は消費するものではなくて想像(創造)するものであるといつでも信じていたいものです。プーク人形劇場は、そうした人の想像力を育む場として今日も尚あり続けています。新しいモノを生み出すことも、壊れたモノを直すことも、人や自分の気持ちを省みることも、全ては想像力の為せる業です。この劇場へ訪れたあなたの探し物がいつかこの場所で見つかりますように。一幕の舞台から、あなたの青い鳥を探してみませんか。(文/池田日明)

▲ 人形劇団プーク「青い鳥」よりチルチル・ミチル人形写真(1957年初演時)
▲ 人形劇団プーク「青い鳥」ポスター(1957年初演時)

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑨

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 寒さ厳しき折、皆さまいかがお過ごしでしょうか。今年もゆったりペースでプークにまつわるあれこれをご紹介してまいりますので、おうち時間のおともにお付き合いいただけたらと思います。

 さて今日から2回連続でプーク人形劇場の外観についてお話してまいります。まずは劇場という建物についてのお話です。昨年10月15日発行の「みんなとプーク」第277号『プーク見聞録』の記事より、ご覧ください。(※注釈のない写真はすべてイメージ画像です)

▲プーク人形劇場の壁面を掘る劇団員(1971年)

プーク見聞録 ~劇場50周年~

その3「碑と壁面彫刻」

 1971年、プーク人形劇場が誕生した年に発行された記念誌の中で、当時の劇団で代表を務めていた川尻泰二は建物の完成を「やはり大きな喜びである」としながら「だがそれは、われわれが更に新しいスタートラインに立ったことを意味する」と語り、その訳を「”仏つくって魂入れず”ということになっては何にもならないことだからである」と記しました。

また、文中には全長27メートルの劇場を「奈良の大仏のほぼ2倍」の高さだと感慨深く語る氏の言葉も残されており、そこからは劇場と仏象を重ねて見ていた眼差しが感じられます。今回は、そんな氏の残した言葉の由について、劇団に遺された文献や多少の民俗学分野の研究を手掛かりに探ってみたいと思います。

 まず、一般に劇場とは建築物です。したがって御仏の姿を模した仏像のような鋳物(いもの)や石造物とは造られる目的から異なります。但し、ここで注意すべきは劇場のように何らかのことが演じられる場とは、本来は神に祈りを捧げる場であったということです。先ほどの川尻氏の文章にもあった奈良の大仏は、正確には(ひがし)大寺(だいじ)盧舎那(るしゃな)(ふつ)(ぞう)と言い、奈良県は東大寺の大仏殿に本尊として納められていますが、こうした仏殿が建立(こんりゅう)されるような土地は、それより以前の古い時代から神木や石神(いしがみ)などの神体が祀られていた所を選ぶことが多く、そのような巨木や奇岩(きがん)を境内に祀っている寺社は現在も多く見られます。

また縄文など古来より、それらの神体には土地の人々による五穀豊穣や安産祈願などの「実り」に対する祈りを捧げられてきました。その切実なる祈りは、後に様々な形へと発展していったと考えられますが、その一つに祭りがあります。元来、祭りは神が降りて来るのを待つ儀式であったと言われていますが、その最中において人々は神を待つために様々な祭儀を行い、祭りの起源や謂れを伝承するために芝居を演じて物語るようになったのではないかと考えられます。また、そうした祭事を行った場が今の劇場の原風景であるように私には思えてなりません。

以上のように日本の原始宗教は祭文や祭事などの中に民族の伝統を遺してきたのですが、やがて大陸から文字が伝播されると、石などの自然物にそれを刻む慣習が生まれます。文字を彫られた石は、石碑もしくは「(いしぶみ)」と呼ばれ、表面にはその地に伝わる”忘れてはならない過去の謂れ”が刻まれています。そうした石を日常的には記念碑などと呼びますが、けして軽んじて然るべきものではありません。なぜならば、そこには何か「魂」とでも言えるものが刻まれているからです。

 さて、ここで話を劇場の方へと戻しますと、プーク人形劇場が誕生した当時「コンクリート直彫り」と謳った劇場の外壁には、多くの碑文が刻み込まれています。それらは劇団が創立されてからの歴史や「多くの困難の中にプークの未来を信じつつ世を去った人たちの名前または愛称」をエスペラント文字で刻んだ数多の徴です。そして、それらの碑文を彫り込んだ劇場を、川尻泰司は「42年の足跡を絵入年代記として彫り込んだいしぶみである」と述べています。つまり、氏はこの劇場を石仏より前の原始的な神体になぞらえて考えていたのではないでしょうか。

▲劇場壁面のレリーフ

飛鳥時代に大陸から仏教が伝来されるより以前、原始の時代における神体は仏像ではなく自然にある石や木でした。森羅万象の事物に神が宿ると考えた日本のアニミズムにおいて、生活に恵みをもたらす木や石の中でも特に巨大なものや奇態なものは人々に畏敬の念を抱かせました。

こうした呪術的ともいえる強大な力を「太陽の塔」の造形などで知られる岡本太郎氏は「なんだこれは!」という戦慄の言葉で端的に表現していますが、本来、石とはそうした底知れぬ力を内に秘めたものなのです。プーク人形劇場はコンクリート造であるため、その材質は純粋な石ではありませんが、やはり川尻泰司がそれを「碑」であると書いている以上、本質的にはやはり石の建築物と考えるべきでしょう。だからこそ、劇場は仏でもあり得ると共に「魂」の入れものとしても成り立つのです。

▲ 劇場壁面のレリーフ(正面入口左側)たとえ ひとりになっても私は歩みをやめない。新しい仲間は必ず集まってくる。プークがやろうとするのはそのような人形劇の仕事だ!

では、その肝心な「魂」とは何かといえば、それは人形劇を含む芸術の全てではないかと私は考えます。劇団の記念碑でもある劇場に表現者の心に灯る火を絶やさぬことで、劇場に宿る「魂」は今も燃え上がり続けているのです。在りし日に建築現場の職人さんたちから「石屋さん」と呼ばれ、壁面の削石に打ち込んだ日のことを川尻泰司は「幸せに満たされた日々」と回想しています。その胸に煌いたであろう喜びへと想いを寄せながら、この度は筆を置くことにします。(文・池田日明)

▲劇場壁面に彫刻を施す笑顔の川尻泰司(1971年)

いかがでしたか。次回は壁面に掘られた印や名前について、一つ一つ取り上げてみたいと思います。どうぞお楽しみに。

プーク人形劇場誕生50周年シリーズ⑤

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ご好評をいただいております、こちらのコーナー、今回は少し角度を変えて、プーク人形劇場の立地についてのお話です。7月1日発行の「みんなとプーク」第276号より『プーク見聞録』の記事からご紹介いたします。

▲1958年 プークアトリエ周辺航空写真(一番右の白丸が現在地)
淀橋浄水場(1899~1965)が写真上部に広がる。左右を横断するのが甲州街道と京王線。

 “それは今から50年前のことでした。春告鳥がようやく目を覚まし、うたの稽古を始めた冬晴れの日に、プーク人形劇場の建設は始められました。それに先立ち行われた地鎮祭(じちんさい)では、祝詞の上奏や、鎌や鍬などを使っての地鎮が行われたほか、獅子舞による地固めも行われ、氏神様へ建設の許しを乞う祈りが捧げられたとともに、これから建設が始められる劇場の堅固長久が祈られました。今回は、プーク人形劇場が建っている土地についてみていきましょう。

▲1971年2月10日 地鎮祭にて舞う獅子舞
▲1971年2月10日 鍬入れ式に人形たちも参加

 まず皆さんは現在のプーク人形劇場がある住所をご存知でしょうか。新宿駅からほど近く、南新宿の地域にある劇場ですが、その住所は意外にも渋谷区の代々木2丁目となっています。では、劇場の氏社は代々木八幡宮なのかと言えばそうではありません。劇場の所在地を含む代々木2丁目の一部地域は、昭和32年頃に地名が変更される以前は千駄ヶ谷5丁目に含まれ、その内の裏新町と呼ばれた地域に劇場は建っています。そのため氏社は千駄ヶ谷の総鎮守である鳩森八幡(はとのもりはちまん)神社で、そこで祀られる八幡神様に劇場は守られているのです。その千駄ヶ谷の地は、かつては千駄の萱を産生する豊かな萱野であったとか、千駄焚きという高台で火を焚き行う雨乞いのための場であったなどと言われています。また、江戸時代には武蔵野台地に流すための上水路として玉川上水が掘られ、その分水(ぶんすい)が昭和の中頃まで地上を流れていました。それも現在では暗渠(あんきょ)になってしまいましたが、その跡地には御上水に掛かっていた橋の名を継ぐ形で葵通りと名付けられています。

▲現在のマインズタワービル

 ちなみに、この葵通りにも引き継がれた葵という名は、現在のマインズタワーが建っている土地に紀州徳川家の下屋敷があったことに由来しています。昔の人々は橋にも命が宿っていると考え、それを橋姫の伝承などに残していますが、劇場近くにあったこの橋は徳川家の家紋にあやかり葵橋と呼ばれ、人々から親しまれて現在でも記念碑などが残されています。

▲葵橋の記

その徳川家の下屋敷の南には大きな池があり、そこには水車が掛かっていました。今から約2万年前に成立したとされる武蔵野台地を流れる渋谷川やその支流は、江戸から明治にかけて人々の生活を豊かに支えてきました。葛飾北斎の浮世絵に描かれている「隠田(おんでん)の水車」の景からは水車を利用して精米や洗濯などを行う人々の暮らしを垣間見ることができるでしょう。

▲冨嶽三十六景 穏田の水車(東京富士美術館所蔵品)
解説ページ:https://www.fujibi.or.jp/our-collection/profile-of-works.html?work_id=1169

 また、江戸時代の人々の暮らしの中で欠かすことのできないものに民間信仰があります。信仰のために結ばれた集団を〝講〞といいますが、これには稲荷講(いなりこう)や庚申講(こうしんこう)と種々様々な信仰があります。特に渋谷の地域では富士山を信仰する富士講の人気が高く、直接に富士へ出向くことのできない人々のために富士塚が築かれたこともあり、それは今も鳩森八幡神社の境内に鎮座しています。そうした信仰のための建築物は他にも様々ありますが、舞台もその一つと考えられるでしょう。その代表格に神社の境内に設営される能舞台がありますが、そもそも日本における芸能の起源は八百万(やおよろず)の神々に対する祈りにあるのだと私は考えます。前号で取り上げた「田遊び」も田の神様への豊穣祈願を目的とした催事の一つでした。その他にもこうした例は枚挙にいとまがないほど存在します。

 1971年2月10日に行われた地鎮祭において、プークはこの土地に宿る八幡神様に祈りを捧げ、劇場建設の許しを頂きました。それから50年が経過した現在も劇場は同地に建ち、私たちに人形劇を演じる喜びを与え続けてくれています。いつの世も人は土地とともに暮らし、何かに祈りを捧げて生きて来ました。私はプーク人形劇場があなたや私の暮らしを豊かにする祈りの場でありつづけていけることを願って止みません。(文/池田日明)” 

▲1948年6月竣工 現在地に建てた稽古場
▲解体前のアトリエ兼稽古場の様子

いかがでしたでしょうか。今回は少し違った視点からのお届けとなりました。今週末は紀伊國屋ホールでの観劇の帰り道、古地図を片手に新宿・渋谷地域をブラブラ散策してみるのも楽しいかもしれません。きっと今までとは異なる風景が見えてくるはずです。くれぐれも熱中症にはお気を付けくださいね。